暮らしを豊かにする生活デザイン Vol. 02

文:島崎信(武蔵野美術大学名誉教授)
「事務用」と「家庭用」を分けているのは、思い込みかもしれない
らしや価値観が目まぐるしく変化し、今もてはやされているものが、来月には見向きもされなくなる諸行無常の世の中。不安になったり、焦ったりすることもあります。
北欧デザイン研究の第一人者で、「生活デザイン」を1960年以来60年以上提唱者してきた島崎 信(しまざき まこと)先生に、暮らしを豊かにする生活デザインのお話を伺います。
以前、人間工学研究の先駆者であった小原二郎さんのお宅にうかがったことがあります。食事のスペースに置かれていたのは、意外にも、キャスターの付いた事務用の椅子でした。奥様がいつも事務用の椅子に座り、食事中に、醤油が欲しい、小皿が欲しいというときに、立ち上がらずに椅子に座ったまま足で床を蹴り、手近な戸棚まで座ったままの姿勢で取りにいっていました。奥様は「行儀が悪いようだけど、案外便利なのよ」と言われていました。木製の椅子が並ぶ食卓に、金属とキャスターの事務椅子が一脚だけ溶け込んでいたのです。
考えてみれば、これは理にかなっています。振り返って食器を取る、少し体の向きを変える、そうした動作が多い食卓のシーンでは、回転して動く椅子の方がずっと機能的です。それでも私たちは、「事務用の椅子」と聞けば金属とキャスターを思い浮かべ、「家庭用の椅子」と聞けば木の温かみを思い浮かべる。そういう固定観念から、なかなか自由になれません。
オフィス家具の営業や商品開発をしている人たちも、無意識のうちにこの境界線に縛られていることがあります。一件の商談で何十脚と納める、という規模の話ばかりを追いかけていると、「では、この椅子は家庭のどんな場面で活きるだろうか」という発想は後回しになりがちです。けれど、事務用として設計された椅子の機能性が、実は家庭のある場面でこそ求められている、ということは十分にあり得る。市場は、思っている以上に会社の外側にも広がっているのかもしれません。

今ではダイニングの椅子として定番のThonet社S32/64。
金属の冷たい印象から、発表当初は家庭やダイニングには敬遠する人が多かった。
デザインというのは本来、用途から自由に発想できるはずのものです。「これは事務用だから」「これは家庭用だから」という区分けを一度外してみて、動作や姿勢、空間の使われ方から椅子を見直してみる。そこに、まだ誰も気づいていない椅子の可能性が眠っているように思います。小原さんの食卓の一脚は、私にそのことを静かに教えてくれました。
(このことを小原さんに雑誌に掲載していいですかと聞いたら?小原さんは苦笑しながら「いいよ」と言ってくれました。)
島崎信 しまざきまこと
東京都生まれ。武蔵野美術大学名誉教授。
1956年東京藝術大学美術学部卒業。
1959年デンマーク王立芸術アカデミー建築科修了。日本における北欧デザインの第一人者であり、生活デザインの提唱者として国内外でプロダクト・インテリアデザインに関わるほか、展覧会やセミナーを多数手がける。94歳の現在でも精力的に講演活動やプロジェクトを推進している。主な著書に「未来に通用する生き方」「美しい椅子1~5」など。


【プロフィール】