暮らしを豊かにする生活デザイン Vol. 01
文:島崎信(武蔵野美術大学名誉教授)
自分の椅子、みんなの椅子
暮らしや価値観が目まぐるしく変化し、今もてはやされているものが、来月には見向きもされなくなる諸行無常の世の中。不安になったり、焦ったりすることもあります。
北欧デザイン研究の第一人者で、「生活デザイン」を1960年以来60年以上提唱者してきた島崎 信(しまざき まこと)先生に、暮らしを豊かにする生活デザインのお話を伺います。

椅子というのは、家具の中でも少し特別な存在です。
人が一日のうちで最も長く体を預けているのは、実はベッドよりも椅子かもしれません。
それほど身近で、当たり前にありすぎて、私たちはふだんその一脚についてじっくり考えることをしません。
オフィスの椅子となると、なおさらです。多くの人は「会社から与えられたもの」として椅子を捉えています。自分で選んだわけではないから、座りにくくても仕方がない、姿勢が悪くなるのも自分のせいだ、と思い込んでしまう。
けれど本来、いったん自分に割り当てられた椅子は、その瞬間から「自分のもの」になっているはずなのです。
高さ、奥行き、角度、クッションの効き方。長時間パソコンに向かって半前傾の姿勢を続けるとき、体にどれだけ負担がかかっているか。これはエルゴノミクスの基本ですが、実際に椅子を選ぶ場面で、価格やまわりの雰囲気より先にこうした問いを投げかけられることは、意外と少ないのではないでしょうか。「奥行きは深いですか、浅いですか」「座面の高さはどうですか」「傾斜は」——ひとつひとつ確かめながら、自分に合わせて調整していく。それができて初めて、椅子はその人のものになります。

近年広がっているフリーアドレスのオフィスでは、椅子は「誰かが使ったそのままの状態」で次の人に渡ります。ここでは、短い時間の中で自分に合わせて調整する知恵が、使う側にも求められます。一方、自分専用の椅子を長く使う場合は、時間をかけてじっくり体に馴染ませていくことができる。どちらが良い悪いということではなく、それぞれに違うアプローチが必要だということです。
もうひとつ、忘れられがちなのがメンテナンスです。キャスターにゴミが挟まって動きが悪くなった、といった不具合は、放っておかれた椅子によく起こります。油を差す、汚れを取る、定期的に点検する。これは単なる作業ではありません。禅寺で掃除が修行の一歩とされるように、手入れをするという行為そのものが、ものへの意識を育て、愛着はそこから生まれます。
冗談のようですが、自分の椅子にニックネームをつけてみるのも悪くありません。名前をつけたものを、人は雑には扱わないものです。
椅子は「支給されたもの」ではなく「自分に所属するもの」。そう捉え直すところから、働く時間の質は静かに変わっていくのだと思います。
島崎信 しまざきまこと
東京都生まれ。武蔵野美術大学名誉教授。
1956年東京藝術大学美術学部卒業。
1959年デンマーク王立芸術アカデミー建築科修了。日本における北欧デザインの第一人者であり、生活デザインの提唱者として国内外でプロダクト・インテリアデザインに関わるほか、展覧会やセミナーを多数手がける。94歳の現在でも精力的に講演活動やプロジェクトを推進している。主な著書に「未来に通用する生き方」「美しい椅子1~5」など。


【プロフィール】